江藤新平卿之像<撮影場所・撮影日時>佐賀市神野公園・2019年6月14日

金福寺<撮影場所・撮影日>金福寺(佐賀市富士町)・2019年7月25日
◎新型コロナウイルス対策に係る非常事態宣言等を受けて、写真撮影活動を休止していましたので、ブログに新しく掲載する写真の在庫が少なくなっています。
このため、今回は、2019年7月18日及び同年8月6日付けで掲載しましたものについて、記事改訂の上、再掲しています。(記事)
長文になりましたので、色つき文字の箇所のみの閲覧でも足ります。
① 前回(2020年6月29日)、島義勇を挙げましたが、島義勇は、江藤新平がリーダーとなった佐賀戦争(1874年。佐賀の乱、佐賀の役とも呼ばれる。)に加わっています。この関連で、今日は江藤新平をご紹介します。
1枚目の写真が、佐賀市内の神野公園に建っている銅像になります。
② 近代司法の父と呼ばれている江藤新平は、三権分立、四民平等を唱え、また、民法の制定に尽力しており、明治政府初代の司法卿に就いています。
江藤新平は、佐嘉藩出身者で唯一「維新の十傑」に挙げられるなど、その功績は非常に高く評価されています。
しかしながら、征韓論を巡る権力闘争(政争)に敗れ、その後、佐賀に帰郷し、本意とは相違したことに流されるまま、佐賀戦争のリーダーとなり、その責任を負って刑に処せられてしまいました。
なお、その15年後には賊名を解かれ、特に、最近では、様々な歴史研究の結果、佐賀戦争の経緯や江藤新平の功績を見直す動きが盛んになっています。
③ 江藤新平は、幕末に、佐嘉藩を脱藩し、京都で勤皇活動を行いました。その脱藩の罪で死罪のところ、藩主の計らいで永蟄居処分を受けています。
その永蟄居処分の約5年間のうちの約2年間、2及び3枚目の写真の金福寺で生活していましたが、案内板によりますと、お寺の付近の子ども達に習字や漢文などを教えていたとのことです。
江藤新平は、約5年後に処分が解かれ、早速、翌1868年には上京し、明治政府の要職に就いています。 この経緯からみると、そもそも脱藩し京都に向かったのは、内密の藩命ではなかったかとの推測もありますが、もちろん定かではありません。
なお、江藤新平に係る書籍としては、司馬遼太郎の「歳月」という歴史小説が著名です。これは、文庫本でも分厚いものですが、一気に読破してしまい、また、最近、再読しました。★撮影場所等の情報について、具体的にお知りになりたい方は、メールフォームからお問い合わせいただくか、又は、お手数をおかけしますが、次の事項で検索してください。
「江藤新平」、「佐賀戦争」、「司馬遼太郎 歳月」、「維新の十傑」、「神野公園」等
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- 2020/06/30(火) 00:00:00|
- 佐賀市
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